続・雑誌的人間

佐山一郎blog

カテゴリ: 昭和の子

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 写真展を見終えたあとは近くの飲食店が気になる。“I”と行ったことのある日本大通り/SCANDIA、 “M”のお気に入りで中華街のはずれにあった広東家郷料理の天龍菜館と、食べ物屋の再訪に意欲を燃やしてしまう。山下公園に係留されたままの氷川丸船首前で半世紀ぶりに写真を妻に撮ってもらうにも、隣にあの日の父は居ない。数奇な運命をたどった美しい老船とほぼ同年齢の母も、前年逝ってしまった。

 小津安二郎作品が今も愛されるのは、不在の人物を介した関係が作劇術を活気づけているからだろう。嵐のように死は現れ、時を静止させる。自然現象のような死のあとに残るのは情愛のわびしさである。横浜を愛した編集者のIもMも、元町育ちの義姉も鬼籍に入った。
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 そういえば、ゴールデンカップスのデイヴ平尾(平尾時宗)さんも亡くなった。エディ藩(藩広源)さんの実家「鴻昌」はすでに閉店している。なのにまだ中華街大通りのお店に彼が立っていそうな気がするから不思議だ。

 香港路に入って海員閣をめざしてしまうのは、別館2階を使ったという「小津組」神話の跡付けだけではない。ほかを開拓するのもつらいほどにお腹が空いてしまったからだ。わたしと妻は新聞紙を積んだままで店内装飾もへったくれもない1階に座らされた。しかも4人掛けの相席である。対峙する中年カップルの会話は誰がどう聞いても不倫進行形のご様子。

 店内スタッフで愛想があるのは帳場に座る老婦人だけで、かつての“南京町”的雰囲気そのもの。ビール大瓶800円を少し高く感じながら、一品料理の焼賣シューマイ(一皿4個)500円、什錦シーチン炒飯800円に五目かたやきそば(楊州炒麺)850円だけの注文だから安いものだ。什錦は多種の材料という意味で五目のこと。楊州は、江蘇省の省都南京の少し東に位置する遣唐使の経由地で美人の里らしい。でも、今どき炒飯や炒麺に鳴門巻きの薄切りが入っているのはこの店ぐらいだろう。
 和風中華の具材に懐かしさを感じていると、至近距離から何とも蕪雑ぶざつな声が…。

「多い! 僕たちの五目かたやきそばより多い! それ、二人前ですか? 僕たちのお皿は丸くてもっと小さかったような気がする。天津飯も何だか今ひとつだし」
 
 相席の先住民ほど強い立場はない。海員閣で名物の生碼麺さんまーめん750円を頼むのならいざ知らず、天津飯てんしんはん850円や高いばかりのスープ類を頼んでは不満も募るというものだ。

 男が隣席のOL風彼女を「マリコ、マリコ」と呼ぶたびに、わたしと正妻のマリコは「名前まで相席!?」と吹きこぼしそうになる。

 さて、土産探しもまたアウティングの重要案件である。中貿(中国貿易公司)の本店で1900円の冷凍スッポン(甲魚的亀)を見つけたが、さすがに料理ができるはずもなく台湾製の紹興酒を一本だけ求めて帰ることにした。

 それにしても異国情緒のもたらすこの気晴らし感ときたら! 
 横浜・半日OUTING(“見学小旅行”)での収穫は、時の静止した旧字の「横濱」なのだった。
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 ハイキングかピクニックの一度ぐらいは、新緑の5月にしたいもの。ピクニックなら、遠くに行くことになるけれど、本来は持参の食事を屋外で食すだけ。イギリスでは,持参の食事そのものを“picnic”と呼ぶらしい。

 ハイキングのほうは、ひたすら歩くことが目的だ。徒歩旅行ないしは低山歩きのにニュアンスに近い。わたしの場合は、どういう偶然か、親しくしている隣人と、向かい隣のあるじの名字のみならず現住所にまで「山」がつく。なので、「山」はもういいや、それよりも日帰りでの“見学小旅行”=アウティングのほうがよろしいゾという気持ちになった。

 アウティングは、いわば西洋流遠足。博物館、美術館、史跡などの見物か海辺までで精一杯。なぜか定着しないこの“outing”アウティングのイメージに沿う場所は、自分の場合、東京スカイツリーやディズニーランドではない。横浜ないしは鎌倉方面がぴたりと適合する。
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 昭和30年代の小学生時分なら、東急沿線にあった多摩川園か二子玉川園ぐらいまでがアウティングの王道だった。後楽園遊園地や浅草はなやしきとなると、もはや遥か遠くの悪場所のように感じられ、とても一人では行けなかった。面倒な電車の乗り換えや一級河川を渡ることで共同体の文化が寸断される印象は今も変わらない。地元意識の境界線は自分でも驚くほど近い所にある。Jリーグに属するプロのクラブ組織は全国に51あるそうだが、もしいまのサッカー人気が本物なら、FC東京規模の人気クラブが都内にあと3つぐらいあってもおかしくない。ロンドン市内のように15ものプロ・クラブは必要じゃないけど。
 
 便利になったもので、最寄り駅から元町・中華街行きの通勤特急に乗れば、目指す日本大通り駅までの乗車時間はわずか28分。電車賃は往復千円を切る。目当ては、日本新聞博物館(NEWSPARK)2階企画展示室で開催中の『笹本恒子 100歳展』だった。4章構成でその数134点。日本初の女性報道写真家の健在ぶりがうかがえ嬉しい。
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 中でもわたしの心を捉えたのは、昭和27年撮影の「原爆ドーム」である。大正4年竣工のチェコ人建築家ヤン・レッツェル設計による元安川もとやすがわ沿いの廃墟は、むしろ遠景にとどまる。撮影時はまだ近くに一般的な墓があった。モノクローム写真で焦点化されているのは、いたわしいドームだけではない。前景として見る側に迫る灯籠の笠たちと墓石群もまた同価値なのである。

「原爆ドーム」という呼称に、「敗戦」を「終戦」といいくるめる杜撰ずさんさを見てしまうのはわたしだけだろうか。原爆を投下された当日まで、そこは広島の「県産業奨励館」だったはずだ。銀杏並木の日本大通り沿いにある横浜情報文化センターという名のこの建物自体も、元は横浜市の「商工奨励館」だった。関東大震災まではアメリカ領事館だった場所で、むかしも今も横浜のど真ん中に位置する。
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 取り壊されなかったこの歴史的建造物には、強靭な意志と運がある。真下を走る地下鉄3号線計画=みなとみらい線のおかげでなんとか生き残り、横浜情報センターとして再生し、そこに日本新聞博物館が入った。入館料=一般510円でこれほど濃い中身を見せてくれる施設は珍しい。笹本さんの「原爆ドーム」が旧商工奨励館で展示され、かつて広島にもあった「県産業奨励館」とオーバーラップしてしまう──こんな体験はなかなかできるものではない。(この項、つづく)

 立て続けに音楽関係者が亡くなったことがあった。

 加藤和彦、2009年10月16日、享年、62。
 今野雄二、2010年8月2日、享年、66。
 中村とうよう、2011年7月21日。享年、79。

 しかも3人ともが凄絶せいぜつといってもよい自死なのである。3年連続してのことだったから、収まらない動きのようでいやな感じがした。とりわけ加藤さんのときは「昭和末」の'80年代に雑誌連載の対談担当だったこともあり、衝撃が小さくなかった。短くはないインタビューもし、伴侶だった安井かずみさんと一緒の食事にも同席させてもらうことがあった。最後にお目にかかったのは2001年の晩秋、『MEN'S EX』(世界文化社)での連載仕事だから、亡くなる8年前ということになる。わたしもまた「加藤さん」と呼ばずに、尊敬と親しみを込めての「トノ」ないしは「トノバン」なのだった。

 この国の文化シーンを、若者の生み出す音楽がリードしていると錯覚していられる時代があった。近現代を問い直す「明治百年(1968年)」を盛んに言い出す保守政権の動きがあっても、頭の中は常に新しい音楽でいっぱいだった。'60年代後半の中学時代から10年近くその熱病に冒された。あの時代は、高度経済成長期というよりもむしろ、'64年出自の「昭和元禄」(by 福田赳夫)のほうが言い得て妙だったのかもしれない。ザ・フォーク・クルセ(イ)ダーズでの加藤さんの不思議なかたちでの登場と活躍が、ちょうど秋の式典に至るまでの「明治百年」に重なる。
エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る


 いずれ誰かが決定版の『評伝加藤和彦』を書くだろうし、盟友たちによる「加藤和彦論」の噂も耳にする。しかし、没後刊行されたものの中では2013年7月刊行の前田祥丈氏による『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』(スペースシャワーネットワーク/東京ニュース通信社)が、いちばん読ませる。'93年の安井さん発病前後までに行われた400字詰め原稿用紙換算、250枚分のインタビューに聞き手の解説を時折入れるスタイルには厳かな銘醸ワインの趣があった。

 よい機会なので、資料庫から件の2001年晩秋の速記録とスクラップ貼を引っぱりだしてみた。語りのもろもろもさることながら、ご自宅で撮影したカラー写真に付けた以下のキャプションが懐かしい。
〈英国好きがこうじて購入したキルトスカート。ロンドンの専門店でスポーランと呼ばれるバッグと共にオーダー。〉
〈最近手に入れたミント・コンディションの1975年型アストン・マーチンV8。この他にロールス・ロイス・コーニッシュ、レンジローバーを乗り分ける。〉
〈コレクションしているのはキリン柄のタイ。エルメスを筆頭に100本近く集めた。“キリン”は長身ゆえに昔からのあだ名だったそう。〉
 天才は予定調和の安定を破る。この自宅でのインタビューから自ら命を断つまでの8年のあいだに一体何があったのか。
「若い人たちの音楽にしても、カッコイイと思うことの桁が一つ二つ低くなっちゃった気がする」
「なんだか今、駆り立てられるものがない。絶対あそこに旅したいとか、これがしたいということで燃えることがないので困っている」
 いつもながらのしれっとした面差おもざしで、そんなふうに語ってくれたのが忘れられない。どこまでも高貴な人だった。「わが理想の兄」として末永く生きていて欲しかった。

 あなたの「幸せのもと」を5点の写真で表現すると?

 いきなりそんなことを聞かれたら、答えに窮する。でも、考えてみるだけの価値はありそうだ。

 そんな気持ちになったのは、ライフスタイル系のビジュアルブック『これからの暮らし方 ~心地よく生きるための衣食住・緑・美~』を感心しつつ読んだから。
これからの暮らし方
 ご登場の西村玲子、李映林、門倉多仁亜、吉谷桂子、吉川千明さんといった面々は40代から70代。それぞれが、おしゃれ、食事、住まい、ガーデニング、美容の世界でアップグレードをし続けている方たちだけに、なかなか面白かった。小川奈緒さんの構成・取材・文と安彦幸枝さんの撮影がハイレベルで、編集も冴えている。

 彼女らが選んだ「私の幸せの素」は、カップであったり、静物画であったりソファーであったり。12歳のコーギー犬が「幸せの素」というのも、ゴールデンレトリバーと暮らしたことがあるのでよく分かる。「ペットを飼う」という下卑た言い方とはまるで違うパートナーとのかけがえのない日々がわたしにもあった。躾を厳しくしすぎたのがストレスになって癌になったのかなと時折後悔する。1年が人間の7年分に相当する「ドッグイヤー」(犬の1年)ほど哀しい言葉はない。

 さて、自分にとっての「幸せの素」は何か。はるか昔のこと、漫画家の赤塚不二夫さんが、「自分のいちばん好きなことが、いちばん辛くなるのはなんという皮肉なんだろうね」とおっしゃっていたのを思い出す。

 ところが、そう考える人は存外いるもので、サッカー・ブームに沸く'90年代にあっても、あえて自分は深入りしないと宣言する浦和出身の編集者がいた。聞けば、「いちばん好きなものを仕事にしたくないから」という。ちょっと待った、いくらなんでも消極的な人生態度に過ぎやしませんかねと訝ったものだが、たしかにサッカーを愛したからといって、サッカーから愛されるとは限らない。わたし自身、時間食い虫に噛まれっ放しという思いを抱くことが少なくない。

 その伝で行くと、好きなワイン関連のことを仕事にしなかったことに改めて思い至る。「幸せの素」の5アイテムに、いの一番で入れないほうがおかしいくらいだ。ただ、“ベストもの”が例によってきつい。白ならプイィ・フュイッセ、赤ならば、カントナを育てたことでも知られるAJオセールギー・ルー監督に現地で振る舞われたことのあるヴォルネイか。でも、実際は、高価なブルゴーニュ・ワインなどではなく、よく冷えた千円台の白ワインと乾きもの、それにBBCなどの世界のニュースと語らいのある自宅版ハッピアワーということになる。

「幸せの素」、あと4点は何になるだろう。

 同書中で「新聞」を挙げていたのが、「住まい」の代表で登場した門倉さんだった。ドイツ流ライフスタイルの紹介者でもある彼女が「新聞を読む時間」を挙げていて、「あっ、同じだ」と思ったから、わたしの場合も世界に誇れる宅配付きの新聞、それもブロック紙の『東京新聞』朝夕刊ということになる。(原発問題にとりわけ不熱心な『読売』などは、まさに“不幸の素”である)

 残り3点は、住んでみたいと真剣に考えたことのあるパリ・サンジェルマン界隈のカフェか、あまり高くないジャコブ通りのホテル。ロンドンのチェルシー界隈も大好きだから、パリとロンドンを挙げれば、既にあと1点のみ。一人息子の黒猫ガッティーノくん(♂)か、散歩のどちらかで悩むものの、ここはやはり、黒猫くんということになろうか。兄弟全員と捨てられ、スーパーのかごの中から「誰か助けて!!!!」と必死に鳴いていたという彼との付き合いもこの夏で5年になる。
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 もう20年近くも前のことである。『小説トリッパー』誌から「あなたにとってのエッセイ、この一冊」のようなアンケートが来た。嫌いな“ベストもの”ながらも、エッセイならこれと珍しく即答できたのが、早川良一郎さん(1919~1991)の『けむりのゆくえ』(文化出版局・'74年/五月書房・'97年)なのだった。
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 そんなことを思い出したのは、早川さんの4冊目のエッセイにあたる『散歩が仕事』 (文藝春秋・'82年)の文庫化が決まり、まさに今日4月10日がその発売日だから。内容紹介からして嬉しい。
〈定年後の毎日が輝いてくる小さな宝物本。/大イビキをかく愛犬チョビ、モンチャンというあだ名の奥さん……定年後やることがないと思っていた日々は思いのほか楽しい。江國香織さんも賛辞を惜しまない名著が、初の文庫化〉
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