続・雑誌的人間

佐山一郎blog

カテゴリ: インタビュー

佐山一郎インタビュー(4/4)


──雑誌離れは読者ばかりではなく、かつての編集者たち、書き手たちも雑誌の現場から離れて行ってますか?

 僕らの年代の人は軽い気持ちで大学や専門学校で教えたがるんですよ。日々若い人に話したり教えなくてはいけないで、最低限の緊張感はあると思うんですけど、たいがいが昔の遊び人ならバカにして行かないような中途半端な所在地でしょ。往年の『新青年』について語るにしても、やはり山手線の内側じゃないと。富士山の麓も都心という感性には付き合いきれません。

 その一方で、ブックカフェやネット古書店へと仕事を変えていく友達も多いです。そういうずらし方はいいと思うけど、最近、流行っていて哀しいのは、雑誌休刊が真実なのに「Webに移行しました」という言い方。潔くないですよね(笑)。

──さて、そんな悪状況のなかで、『新青年』復刊構想らしきものは成立するのだろうか。そこではやはり事前の明確なプランニングが必要とされるのでは。

 おっしゃるように、いざやるとなれば、まずは大豪邸を建てるくらいの綿密な設計図が必要です。勢いでやるのではなくて、高度なシステムをちゃんと作っておかないと。最近はおカネのかからないアーカイヴ特集が流行りのようだけど、これから先は次第に濁り水が透明になるような気がしています。そのときに読者の劣化がどこまで進んでいるのか。あえて劣化していることを前提にして、嫌われることをしなくてはいけないのかもしれない。

──戦前、大きな人気を博したモダンでハイセンスな雑誌の商標権を獲得されたこと自体は、「雑誌愛」とでもいうべきロマンが大きいのではないかと思っています。

 いや、ロマンとリアリズムとは表裏一体ですよ。どちらか一方だけを言うほど愚かな話はないですから。だけど、日本人というのはホントに先達の築き上げたよき文化・芸術を大事にしませんね。じつのところ、商標権ごときで多少騒がれて少し重荷になってきています。元はと言えば、ほんの遊び心で調べてみたら、たまたま長いこと宙に浮いていたというだけの話ですから。変な輩が持つよりは、自分のほうがよほどマシというだけのことです。

『新青年』に限らず、いま雑誌を出すとなれば、そこにはかつてないほどの困難が付きまとう。そんななかで雑誌の最前線に立ち続け、その浮沈を見てきた佐山さんの言葉はなんとも言いがたい重さをもってこちらにも響いてきたのだった。
雑誌的人間
 氏の著書『雑誌的人間』のなかには、雑誌に関する次のような記述がある。
〈何を夢見たいなことを、と思われるかもしれませんが、雑誌づくりは元々がシンプルな営為。敢えて乱暴な言い方をすれば、テキストと図像と紙だけあれば成り立つ世界なんです。雑誌編集者の密かな愉しみは、さりげない仕掛けが時の経過とともに、単行本や展覧会となって実を結ぶときなのではないか──〉
 雑誌をめぐる状況は2、3年前の執筆当時と比べて、さらに悪くなっている。とはいえ、そこは雑誌を愛し続ける人。よい報せを心待ちにしたい。(この項、了)
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

佐山一郎インタビュー(3/4)

 当時のモダンな人たちの生活ぶりはいかにも遊び上手でお洒落で破天荒で興味深い。石津謙介さんもまた『新青年』を読むモダンボーイのひとりだった。60年代にひとびとの生活水準が戦前まで復活するなか、石津さんは、'50年代に「VAN」ブランドとして知られる「株式会社ヴァンヂャケット」を設立。'50年代末ごろからまずモダンジャズの時流に乗ったアイヴィールックで熱烈に支持される。少し話は逸れるが、佐山さんにとって石津さんはどんな人物だったのだろう。

 石津さんは、明治の最後の年の1911年に岡山の名門紙問屋に生まれた方で、「飛行」に憧れて若いときから当時としては珍しいグライダーの免許を持っていたんです。そのもともとのお洒落好きを『新青年』の「ヴォガン・ヴォグ」で強化してという若旦那中の若旦那。親戚筋に「京大瀧川事件」で有名な京都大学の瀧川幸辰さんがいたんです。その昭和8年5月の大騒動のころもしょっちゅう家に遊びに行っていて新聞記者の取材を受けたことがあったそうです。

 日本のモダニズムをひとりの人生に負わせたときに石津謙介さんは、この上なく象徴的な人物なんです。これは僕の勝手な見立てなんですけど、たぶんIVYが好きじゃなかったのではないかと(笑)。石津さんと初めて会っときは'80年代出自のDCブランドがまだぎりぎり続いていたときで、コム・デ・ギャルソンのジレ(ベスト)を着て行ったら軽く因縁つけられてね。ファッションという狭い枠組みを超えた、ライフスタイルの思想家たらんとした文人だったんだと思います。

 中国・天津租界でのコスモポリタンとしての生活を昭和14年の9月から敗戦の翌年昭和21年3月まで体験しているから、人間のスケールが違うんです。服飾とか食べ物のコラムの原点はやはり『新青年』のコラムなんだと言ってました。あとまぁ、石津さんに限らず、小津(安二郎)好みの人も『新青年』が好きなんじゃないですか。

 石津さんに一番好きな映画は何ですかと聞いたら、小津安二郎監督の『学生ロマンス 若き日』(1929)にもポスターが出てくるフランク・ボーザージの『第七天国』(1927)というアメリカ映画だと言っていました。石津さんは、あの映画でチャールズ・ファラルが被って有名になった帽子、いわゆるオナシス帽をずっと被っていました。石津さんや植草甚一さんのようなモダンじいさんとは肌が合うんですよ。
VANから遠く離れて――評伝石津謙介
 現在に視線を移すと、雑誌の売れない時代が続いている。1975年創刊の『月刊プレイボーイ』が休刊し、1987年創刊の『エクスクァイア』日本版も2009年5月発売号をもっての休刊が発表されている。どちらにも共通するのは海外との提携から始まった男性向けのライフスタイル・マガジン。男性誌受難の傾向はここに来ていや増すばかりだ。

 かなり前から漫画誌や世代別の女性誌で成り立っているところがありますよね。そういう意味からも男性誌は、ずっと苦戦続きだったんじゃないですかね。痩せ我慢や目立たないことでのお洒落がダンディズムだから、本来、男性誌は商業主義とは相容れない面があるんです。しかも一日に24時間しかないなかでネット、ブログ、解像度抜群の大型TVと選択肢が増えてしまっている。そのなかでなお既得の利益構造をそのまま維持するというのは無理な話です。

 読者の感覚変容は間違いなく起きています。もはや雑誌が世の中に必要がない感じさえするなかで、それでもまだあえて紙媒体でなければいけない理由を考え尽くすしかないんです。ニッチ産業の一つであることをもっと自覚してやらないと。

──そうした雑誌業界の不況というのは現場のレベルでも現れてきている?

 幸いにして出版社のお金であちこち世界中に行くことができましたけど、これから先はもう大手の社員でも行けないでしょうね。社員に対しても極力遠くに行くな、経費を遣うなと言うわけでしょ。でもたまには外国取材にも行きたいし、若い書き手たちこそ出て行くべきじゃないですか。その辺を考え直さないとだめですよね。

 この業界はもう、なんだかみんな暗い顔ばかりしていて、窒息寸前という感じです。写真表現にしたって週刊誌の連載コラムにしたって、同じ人たちが同じことを何度も繰り返していますよね。しかも最近はもう、売れた、売れなかったかの話ばかり。ヨッ、待ってました、ついに来ました、焼け跡闇市。乱世じゃ、乱世じゃと無理にはしゃぐこともないけれど、チョイト面白い下克上の世の中だぐらいに考えているのはどうも自分だけのようです(笑)。(この項つづく)
 
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

佐山一郎インタビュー(2/4)

──佐山さん自身はとくに『新青年』のどこに興味を持たれたんですか。

 『新青年』の中で中村進治郎さんたちが執筆された「ヴォガン・ヴォグ」というファション・コーナーをファッションプロデューサーの石津謙介さんご自身が愛読していたというのを聞いたことが決定的でした。でもやはり小林信彦さんの長編小説『夢の砦』ですね。本文中の『新青年』を模倣してみんな失敗するというあたりかな。
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 中井英夫さんが『ブルータス』2号で昭和8年の10月号が凄いと書いています。水谷準編集長の時代で、夢野久作、小栗虫太郎、獅子文六らがその頃の主要執筆陣ですね。雑誌というのは編集長次第で、どの時期も一様に素晴らしいということじゃないから、そういうふうに特定したくなる感覚というのが重要です。

あと、当時のモダン系の人たちは、「これしか読むものがなかった」という言い方をされます。30年続いた都会派のメンズマガジンをポストモダンの日本で打ち出すのが困難になって、逆に郷愁をかき立ててやまないようです。モダニティと郷愁というのは、本来、水と油のはずなんですけどね。

──いま『新青年』のような雑誌をやるとなるとどういう形態の雑誌になるんでしょうか。

……「敢えて紙でなければならなかった理由が読者に突き刺さるようなかたち」としか答えられないですね。「独裁編集人」とわざわざ銘打ったほうがうまくいくんじゃないでしょうか(笑)。

──でも『新青年』は不良っぽいし、いい意味でいいかげんですよね。

「総ルビだったから取り敢えず子供にも読めた」と1935年生まれの久世光彦さんが、山本夏彦さんとの対談(『文学界』94年9月号)で語っています。1915年生まれの山本さんは小学校4年生ぐらいのときに乱歩のバックナンバーを古本屋で買って読んだそうです。どんぴしゃりだったのは、1911年生まれの石津謙介さんや1910年生まれの双葉十三郎さんの世代じゃないですかね。『新青年』という忘れ物を探したくなる世代も一人減り、二人減りというのが実状なんじゃないでしょうか。

──「モボ」、「モガ」というのもちょうどその辺りの人たちになるんでしょうか。

「モボ」、「モガ」というのが、これまた定義の難しいところでね。ヴァンヂャケットの元総帥・石津さんが『ファッションと風俗の70年』(婦人画報社・75年)のなかで「ぼくのモダンボーイ記」として書かれたことが出色なんだなと思います。女性では淡谷のり子さんや宇野千代さん。男性では俳優の中野英治さん、岡田時彦さん。僕らがなんとなくイメージをしている髪を短くして断髪でというようなことは確かだけど、実際はもっと荒々しい精神性を帯びていた。

 リアリティーは、往時の銀座界隈で遊んでいた人の示すものでしか分からない。石津さんの文章で初めて立体的に分かり得たという感触ですね。で、その石津さんがモボの代表は、『新青年』お洒落コラムの常連、中村進治郎だと書いているんです。

 モボは、やはり銀座で遊ぶ慶應の学生という感じ。淡谷のり子さんが各大学に歌いに行くと、慶応に行くとケーキが出て、明治に行くとソーダー水しか出ないとかで類型化が可能だったんです。いまじゃもう、大学イメージの類型化や単純一般化自体が、ひどく迷惑な話でしかないんですけどね。(この項つづく)
 
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

佐山一郎インタビュー(1/4)

季刊『nobody』誌で掲載していただいた2009年のインタビューを再録します。インタビュアーは渡辺進也氏です。

渡辺進也(わたなべ・しんや)
1983年生まれ。編集、映画批評。映画雑誌『nobody』編集委員。主な著書に『建築空間400選』(共著、INAX出版)など。
NOBODY issue41 
 東急東横線沿線の最寄り駅を降り、かつては暗渠であったという緑道をひとしきり歩く。そこに流れる緩やかな時間のなかでここが東京23区内であることをしばし忘れてしまう。

 住宅街の坂路地に面したRC打ち放し三階建ての佐山一郎さんのお宅に伺うと、ご本人が快く出迎えてくれた。

 2階の書斎で名刺を交換すると、そこは『雑誌的人間』(リトルモア・2006年)という本の著者。あれよあれよという間に机の上が是非閲覧してみたかったヴィジュアルに優れた雑誌でいっぱいに。氏が編集長を務めた『スタジオ・ボイス』──松田聖子がチューイングガムを口にくわえる印象的な表紙の──1983年12月号もそこにある。『スタジオ・ボイス』が提携していた'80年代前半のアンディ・ウォーホールズ『Interview』や1968年から75年にかけて文化出版局から出版されたメンズ・マガジン『NOW』の全冊。そうした雑誌のページをめくっているだけで時がたつのを忘れてしまう。

「若さにまかせて自由奔放なことをやっていたから、いまの雑誌がつまらなく見えてしまいます。でも、もうちょっと我慢強ければ、こういうマイナーでもメジャーでもないスタイルの雑誌を定着させることができたかもしれないですね」。

 かつての仕事を振り返る何気ない一言に雑誌への偏愛が仄見える。

 佐山さんは1920年から1950年まで続いたモダン雑誌『新青年』の商標権を2006年に取得している。『新青年』はあの江戸川乱歩がデビューした雑誌であり、横溝正史、久生十蘭といった探偵小説家が活躍した雑誌。帰朝者の谷譲次(=長谷川海太郎/牧逸馬/林不忘)がアメリカで生活する日本人を描いた「めりけんじゃっぷ」シリーズは、当時の若者たちの海外への憧れを刺激した。その守備範囲は伝統の探偵小説にとどまらず、映画、スポーツ、ファッションなどの雑文にまで及んだ。『新青年』は関東大震災から復興へと向かう戦前・戦中の東京と寄り添うモダン・マガジンだった。

 なぜいま『新青年』の商標権を取得したのだろう。その経緯は氏が『文藝春秋』2006年9月号の巻頭随筆欄に寄せた「『新青年』発見」に詳しい。
〈(略)新青年研究会による立派な探求書『「新青年」読本全一巻──昭和グラフィティ』(作品社・1988年)がある程なのだから、誰かしかるべき人物ないしは版元が保有しているはずだと普通なら考える。そして、その瞬間、我が胸に「至上の雑誌愛」とでも譬うべき感情がわきたち、後日、弁理士の居る特許事務所の扉を開けることとなった。/登録査定謄本の送達があったのは、およそ八ヵ月後。かかった費用は意外にも大画面薄型テレビが買える程度の金額だった。/目下の心境としては、一九五〇年七月号の休刊から五十数年ぶりの復刊を夢見る権利を得られた喜びよりも、江戸川乱歩、横溝正史、谷譲次、夢野京太郎、小栗虫太郎、久生十蘭、獅子文六らあまたの才能を擁した超名門雑誌が長く野に打ち捨てられていたことに対する困惑のほうが強い〉
 表向き復刊に向けて準備中ということになってはいるものの、佐山さんには世間の反応を楽しんでいるようなところもある。

 幻に終わるかもしれない『新青年』復刊構想を皮切りに話は昨今の雑誌の状況に向かう。
STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 04月号 [雑誌]
──この春、『スタジオ・ボイス』の400号に掲載された北沢夏音さん、坪内祐三さん、湯山玲子さんとの座談会「MAGAZINE'S BEAT」を拝読しました。予想以上にみなさん熱っぽく『新青年』について語っていますね。

 いやいや北沢さんだけでしょう。横溝正史(1927-1981)がオーガナイズした時代、ということは昭和2年3月号以降の『新青年』が大好きで、「軽い気持ちで商標権を取ったのなら、口もききたくない!」なんて言われてしまいましたから(笑)。

──みなさん『新青年』が休刊したときに生まれていらっしゃらないですよね。なぜ『新青年』で話題を共有できているのかが不思議だったんです。雑誌が元気だった'80年代に活躍された方たちの誰もがお好きなのでしょうか。

 そんなことはないと思います。終刊した昭和25年 7月号の時点では、いま50代半ばの僕ですら生まれていないですからね。やはり作品社から出た鈴木貞美氏たちによる『新青年研究会』編『「新青年」読本全一巻──昭和グラフィティ』が大きかったんじゃないでしょうか。

 あとは『ブルータス』の創刊2号での特集と小林信彦さんの小説『夢の砦』(新潮社)。『ブルータス』が'80年、『夢の砦』が'83年の秋。『「新青年」読本』が'88年。新青年の編集者だった乾信一郎さんの『「新青年」の頃』(早川書房)が'91年。'80、'83、'88、'91年と続いて来たんです。やはりそうした絶え間ない流れによる影響が大きいですね。

 立風書房から立派な函入りの『新青年傑作選』全5巻が刊行されたのは1970年5月。僕は当時、高3でしたけど、五木寛之、庄司薫、それに立木義浩さんたちカメラマンが華やかだった時代です。『新青年』趣味といわれた独自のセンスについて知るのはその後だいぶ経ってからです。 (この項続く)
 
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

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