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サヤマ・リマスタリング

薩川了洋が語る、1998年の“FCバルセロナ”体験(2/2)

 スペインの田舎にキャンプで行ったとき、「チャーリー、チャーリー」と現地の人に言われるから、おお、この監督、凄いんだなあ、と。人柄も良くて、ガーッと言わずにいつものほほんとしていた。

 とにかくディフェンスの練習をしないんですよ。4対2のボール回しからスタートして、5対3、5対4、7対6とか、一人フリーマンを置いた9対8。レシャックも入ると、これが結構、巧いんだよね。フリーマンを有効に使うときの顔の出し方や素早いパス出し、パス回しにこだわったね。数的有利作ってのことだから、はまると凄い。

 どっちかと言うと、3点取られても4点取り返しゃいいんだという感覚だったと思うんだよね。面白いサッカーだなとは思うけど、相手と1対1の局面になる確率が凄く高かった。自分の強さが見せられる訳だから、苦しい半面、面白いところは沢山あった。

 ところが、開幕戦でいきなり先発メンバーから外されたんですよ。その前の日に子供が産まれたから余計よく覚えている。オレ的には、よおっし、子供も産まれたから明日はマリノス倒すぞって言ってたからいきなり出鼻をくじかれてしまった。

 とにかくクライフが監督をしてたときに、コーチにしろ、選手にしろ、能力的に凄く高い人ばかりがこなしてきたシステムでしょ。おい、ここで同じ感覚でやるなよ、と(笑)。そのうちにこっちも完璧にカラダが慣れてきて、攻撃という面ではイケるサッカーなのかな、と思い出して……。レディアコフやフットレがドドドドーンと点入れる感覚が凄かったんです。横浜国際のピッチがぐちゃぐちゃになるくらい水撒かせて、ボールが回るようにしてたから。

 でも、試合終わると、きついんですよ。機転が利くタイプの選手がいればいいんだけど、オレ含めて、永井秀樹、原田武男、三浦淳とあんまりそっちのタイプじゃない。サンパイオや山(口素弘)もヘロヘロになっちゃったりで。とにかく走る距離が長いから。キーパーの楢(崎正剛)もその頃は出始めだったから、まだ守備範囲が狭かった。

 ああいう実験的なシステムには、時間もかかるよね。日本にそんなシステム持ち込んだのは、レシャックが初めてだったから。

 結論を言うと、攻めはいいけど、守りは素人みたいなことで、布陣に合う人材がいなくてうまくいかなかったんじゃないかな。それとレシャツク監督は、たぶん3-2とか3-4とかの取られて取り返す試合結果のほうが好きだったんだと思うな。

 レシャックが帰ったあとにエンゲルスが昇格したんだけど、ボール回しに関してはいい影響が残ったんじゃないかな。解散目前のフリューゲルスの天皇杯優勝は、もう気持ちだけで、戦術どうのの問題じゃなかった。いかにサッカーが気持ち次第かがよく分かりましたよ。

 個人的には、日本人に合うシステムということでは3バックのほうが確実のような気がする。ただし両サイドに能力の高い人がいればの話なんだけど。4バックはカバーのし合いだからコミュニケーションがより必要になってくる。将来的には自分も3バックの中をやってみたい。こう見えても、昔はスイーパーだったから。(この項、了)

初出:『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)2001年5月

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。

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薩川了洋が語る、1998年の“FCバルセロナ”体験(1/2)

 おやっ、この顔は?

 懐かしい顔がテレビ画面に映し出された。そりゃあそうだろうな、スペインに滞在しているのだから。元横浜フリューゲルス監督のチャーリー(カルロス)・レシャツク・セルダ(当時54歳)がテレビに出てくることもあるだろう。
 
 アスカルゴルタ元横浜マリノス監督にしてもスペイン、ボリビアでは結構な有名人である。でも、チャーリー・レシャツクの監督就任は、相当なビッグニュースである。2001~2002シーズン終了までの2度目の暫定監督とはいえ、名門中の名門、FCバルセロナの監督になったのである。

 一癖も二癖もありそうな面構えのホアン・ガスパール会長とレシャツク監督が固く握手を交わす様が、2001年4月24日付スポーツ紙の一面を飾った。

 そこで思い出されたのが、1998年のシーズンだ。当時の『サッカーマガジン』の「98Jリーグ写真名鑑」にこんな記述が残されている。

〈個々の能力を生かしたチーム作りで成績を残したオタシリオ前監督だが、半面、戦力を固定して戦ったため、控え選手の出場機会が減り、全体の層が薄くなる弊害を生んだ。レシャツク監督招へいの狙いは、「日本人に合った組織的なサッカー」(安達ゼネラル・マネージャー)への転換にある。選手の適性を探ってきたレシャック監督は、昨季までの3-5-2から、バルセロナが採っているのと同じ、3-4-3システムへ変更することになりそうだ。さらに守備も、マンツーマンからゾーン・ディフェンスに変更。これはマーカーの動きによって強いられる、選手のポジション・チェンジを少なくするためでもあり、昨季までのリアクション・サッカーから脱皮を図る狙いを見ることができる〉

 ふむふむ。監督紹介の箇所には、〈バルセロナの選手としてスペイン・リーグの得点王にも輝いた名FWで、引退後はクライフ監督時代のバルサのヘッドコーチ。黄金時代構築に貢献した〉とある。

 3年程前(注:初出掲載時)の話だというのに、無闇に懐かしく感じられるのはなぜか。とにかく、あの横浜国際競技場で、クライフ仕込みの3-4-3システムの実験がなされたことに当時、新鮮な驚きを覚えたものだ。大味と言えば大味だったけれど、ツボにはまると、5-1、4-1、3-0のようなスコアが出現した。1stステージでは7連勝し、10勝7敗。しかし負けるときは簡単に3点差をつけられた。

 結局、レシャツクは2ndステージ第5節以降、5連敗を喫し、9試合を残したところで解任。戦績は、'98年1stステージが10勝7敗の8位。8月下旬に再開した2ndステージでは更にふるわず2勝6敗。その後の9試合を後の京都サンガ監督、ゲルト・エンゲルスが建て直し、7勝2敗。秋口の対セレッソ大阪戦では7-0(前半5-0)の結果まで現出させ、18チーム中の7位にまで持っていった。チームの解散合併騒動の渦中での天皇杯優勝は、それから間もなくのことだった。

 それにしても、いったいあの「実験」は何だったのか。そこで当時のDF薩川了洋のりひろ(現FC琉球監督)に話を聞こうと思い立った。(この項つづく) 
初出:『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)2001年5月

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