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サヤマ・リマスタリング

楽しきかな、我が解説人生(2/2)

小島伸幸(NHKサッカー解説者/日本大学サッカー部コーチ)
kojima
自身のGK時代を振り返ってもらうと、およそ以下のようになる。

「シュートを打たれたら小さいGKのほうが反応が速いですからね。僕はカラダがでかいんで、前に少し出ることでシュートコースを消していました。手足を伸ばすだけでも或る程度のところまでは守れちゃうのでそういう風にしていました。ただカラダを相手のいちばん決めやすい距離感のところに置きたくなかったんで、そうなりそうな時は敢えて全く動かなかったりということもしました。蹴られてから反応しなきゃならない商売なので、そこのところはやっぱり気をつけましたね」

 1966年生まれの小島はJSL(日本サッカーリーグ)の体験者でもある。新島学園高校と同志社大学時代は、GKの先輩に教わる程度で殆ど我流だったという。

「小学校の時は野球、サッカー、水泳を掛け持ちしていました。最初は野球少年だったんですが、小4のときに靴の踵をふんづけていたら、『おまえ、もう来るなッ!』(笑)。本格的にGKを始めたのは高校からです。'88年に入部したフジタ工業にもGKコーチはいなかったですね。キーパー出身のOBの方が、パートタイムで来て教えてくれたりはしましたけど、より具体的なかたちでの指導のバリエーションを受けられるようになったのはJリーグのベルマーレ平塚になって1年目か2年目です。30歳になるちょっと前ぐらいでしたから。ユース年代の代表合宿に行けば、住金の小松義典さん、日立の瀬田龍彦さんたちに教わることはできたんですけどね。……しかし練習大嫌いだったくせに、何で俺、こんな偉そうなこと言ってんだろう(笑)」

 '85年87年ザグレブ・ユニバーシアード大会代表を経て、フジタに入ったばかりの『第24回日本サッカーリーグ'88~'89 1部プログラム』にはこう記されている。

《背番号21 新人選手 小島伸幸 (1)GK(2)昭41・1・17、O型(3)22歳(4)群馬(5)同大(6)187・6cm(7)79・4kg(15)小学5年生(16)野球よりおもしろそうだったから(17)野球、テニス、アメフト(19)高さを生かした、思いきったプレー(19)シュート一球一球を大切に練習したい(20)リーグでやっていけるような身体づくり》

「実は、この時まだ同志社大学に在学中なんです。留年しちゃったんで登録だけ終えたアルバイト選手。授業の時の交通費だけもらっていました。僕は小島製作所という町工場の長男として生まれました。お祖父さんは会社を継いで欲しかったようですけどね。中・高はエスカレーター式。大学はスポーツセレクションでした。この頃のフジタは午前中だけ勤務。ただシーズンオフは終日勤務でした。それでも総務部の女の人に『自主トレ行って来ます! 勝負勘磨いてきます』と言って平和島競艇方面とかね(笑)。2級上の宮沢ミッシェルさんはフジタで営業やってたんじゃないかな」

 昔懐かしいプログラムを持参したのがいけなかった。「懐かし過ぎ!」と言ってからサービス精神旺盛なのぶさんのプログラム解説が始まった。

「僕に出番が回って来たのはリーグの3試合目でした。……おっ、フジタのこの人は、ドイツ大会で主審として活躍された上川徹さんだ! DF登録ですけど、オールラウンドで何でも出来るんです。GKのユニフォームも持ってましたからね。名塚(善寛)は今、コンサドーレ札幌U-12のコーチです。(注:2013年よりトップチーム・コーチ)」

 当時闘った選手たちの中で特に手こずった選手はと聞いてみると、

「DFオスカー(日産)がまず凄かったですね。アルゼンチンから来たMFホルヘ(全日空)のCKは速くて曲がって落ちるボール。ダイレクトで狙って来てそのまま入りそうなんですよ。FW前田治(同)とはユニバ代表で一緒でしたけど、ドリブルからニアサイドにシュートを打たれるのを分かっていてもやられるんです」

 オールドファンでさえ忘れている、平野直樹(松下)に、MF矢頭敏則(本田)、DF金子“ゴルゴン”久(古河)といった選手の顔を見つけて懐かしがるあたりにも年輪を感じる。

「フジタはサッカー選手に優しい会社でした。僕は、電話の応対も極力しないようにしたりで、社会勉強を殆どしていないんです。最近寂しかったのは、自分が平塚時代に使わせてもらっていた大神グラウンドとクラブハウスが松蔭大学に譲渡されたことです。帰っていく場所がなくなるような感じがして残念です。新幹線の鉄橋の下の掘建て小屋から始まったのが立派になって、Jリーグって凄いなあと思ったものですよ。この間、ザスパ草津と湘南の練習ゲームがあったから行って来たんです。思い出がいっぱいあって語り尽くせないですよ。僕らのことまで歴史から消えてしまいそうで非常に寂しい……」

 競馬予想や推理小説好きでも知られるチョイ粋オヤジの小島だが、指導者資格は現在もB級ライセンスのまま。(注:のちS級ライセンス取得)今ひとつ監督業に気持ちが向かわないのは、先輩監督連の苦労を間近で見過ぎたからなのかもしれない。

「現場に出るためには、もう一回脇腹の贅肉全部取らないと。凝り性だからそうなった時は、凄く凝ると思うんですよ。ただモチベーションが沸々と湧くまでは、暫くこうやって生計を立てながらということですね。周りの人に支られる部分がいかに大きいか。それを今放送の現場やザスパ草津の湯煙の中で学んでいますよ」
(文中敬称略・この項、了)
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初出:『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)2006年8月29日号
連載「ぼくの蹴球殿堂」のタイトル「楽しき哉、我がGK人生)を改題
Photo by Reiko Iijima
illustration by S.Maruyama

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。

サヤマ・リマスタリング

楽しきかな、我が解説人生(1/2)

小島伸幸(NHKサッカー解説者/日本大学サッカー部コーチ)

 

 
 稚拙なサッカー中継についての議論が相変わらず繰り返されている。個人的には、以前から小島解説のファンで、8年前にこんなインタビュー・コラムを専門誌に書いている。
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 2006年ドイツ大会が失意のうちに終わり、一体何が収穫だったのだろうと考える機会が多い。とは言っても、目立たぬ陰のMVPは居るもの。一人の中年メディア観客としては小島伸幸の落ち着いた解説に救われた思いがしている。特によろしかったのが、ラヂオでの対クロアチア戦とブラジル戦。声量、滑舌という点でも申し分がなかったし、何より語りに過不足がない。ピンチの時の「うわーっ!」にもゴールキーパー出身ならではのやるせないような責任感がにじみ、名人芸に近いものがあった。

 だから、今回はそのことだけを伝えに来たようなものなのである。実況解説の「国内組」代表にまずは「お疲れ様」を述べたかった。

「クロアチア戦がNHK第1。ブラジル戦がジャパンコンソーシアムということで六本木ヒルズのJ-WAVEのスタジオだったんです。最後はもうぐったり肩の力が抜けて、みんなどんより沈みました」

 解説の仕事は2002年日韓共催の際にNHKハイビジョンの『週末ハイライト』で練習済み。だがテレビと違ってラヂオ解説の実質は実況アナウンスのフォロー。現場の有様を小島は「速射砲」と称した。

「いつ(自分が)入っていいんだよ~! ま、いいやって、最初の5分で大抵諦めるんです(笑)。「今のはこうでしたよ」と解説している時間がないんですよ。行ってる間にどんどんボールが動いちゃいますから」

 好評ぶりを自己解説してもらうと、以下のようになる。

「いいとおっしゃって頂ける理由は現役生活を辞めてまだ間もないから。現場感が残っていることでプレーの質や現象が手に取るように分かるんです。これから先、年月が経つとその感覚がなくなって面白味が減るかもしれないですね」

 今回のワールドカップで気になったのがボールの「進化」。そのことを言うと、さすがゴールキーパーである。

「狙って蹴るタイプよりも思い切り蹴る選手に有利であるような気がしました。フッと枠の外に逃げる軌道の時があるので、もうちょっと普通のボールにしてくれないと面白くならないような気がします」

 1966年1月17日生まれの小島(フジタ-平塚-福岡-草津)が、今年(注:'06年)1月まで現役GKを続けたことはよく知られるところ。前年11月には後藤義一(古河-市原-札幌-横浜FC)の持つJ2最年長出場記録(39歳9カ月3日)を更新した。選手時代の大きなな怪我や故障はと聞くと、ここでも淀みない答えが返ってくる。

「両膝半月板と内側靱帯を痛めました。左足首に、軟骨はげたところの骨がダイレクトで当たって今も痛いんです。それが引退の直接的な理由です。肩は手術するほどではないんですけど、セービングした後、痛みで腕が上がらずボールが投げられなくなって注射打ったことがあります。四十肩という感じですね。指の骨折は同志社大学の時と、'95年8月の国立競技場でのブラジル戦〈1-5(前半0-2)〉。重度の突き指や、けられなくてゴールポストに頭をぶつけたこともありますけど、怪我を怪我とあまり思わなかったところが良かったのかもしれません」

 ザスパ草津に在籍した選手晩年で忘れがたいのは、2004年12月15日、仙台スタジアムでの天皇杯5回戦、対横浜F・マリノス戦だろう。この試合で草津は2-1(前半1-0)による延長Vゴール勝ち。しかも後半は9人での戦い。J2への昇格を決めたばかりとはいえ、その時点ではまだ3部リーグにあたるJFL3位のクラブ。Jリーグチャンピオンを破るジャイアント・キリングだった。

「でも、なんとなく勝てるような気はしたんです。ただ、後半40分に、二人目の退場者がDFから出た時、これは難しいなと思いましたけどね。ザスパでは目の前の試合に勝つために準備をするJリーグとは全然違う気持ちのハリがありました。2002年に群馬県一部リーグからJリーグ昇格の挑戦を始めた時は、自分の現役のうちにぎりぎり間に合うかなと考えていたのが、なんとか間に合ってしまった。何もしなくてもお客さんが集まって来るような状態じゃなかったからいろいろな勉強をしたし、納得行くまで出来たと思えたことが良かったです」

 天寿を全うと言っては語弊があるが、小島は平塚時代の'98年オフにまさかの「0円提示」を受けている。

「32歳の時の危機でしたから、『このままじゃ終われない』と言って、最後はJ2でしたけど、もう一回Jに上がれてそこそこ通用することも確認出来て……。日本代表ではキャップ数は5しかなかったですけれども、'98年にはワールドカップ・フランス大会にも行けたし。誰かにもう辞めなさいと言われて現役をやめた訳じゃないので、これ以上ない終わり方の出来た数少ない人間のうちの一人だな──というのは感じますね」

 そうそう、肝心のことを聞き忘れている。学生時代から187センチ・80キロの大型GKとして将来を嘱望されたこの人にとっての憧れのGK は誰だったのかを。

「ぼくはゼップ・マイヤー(1944-)でしたね。ドイツのキーパーは巧いという子供の頃のイメージから脱せられなくて(笑)。でも今のサッカーに違和感なく通用しそうなのは、旧ソ連のレフ・ヤシン(1929-1990)じゃないですかね。ピーター・シルトンがピッチに蘇ってもうまくマッチしないような気がします」

 う~ん、さすがすいも甘いも噛み分ける“のぶさん”である。彼の中には放送ではなかなか聞けない上級編・解説ワールドがあるようだ。(文中敬称略・この項続く)
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初出:『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)2006年8月29日号
連載「ぼくの蹴球殿堂」のタイトル「楽しき哉、我がGK人生)を改題
illustration by S.Maruyama

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。

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