サヤマ・リマスタリング
なぜサッカーメディアは堕落していったのか?~その愛されない理由~(3/3)
それでもまだ「役割を終えたのか」── という風な議題設定じゃなかっただけましです。後発の媒体側からすれば、老舗は協会との付き合いの長さ含めて内輪でやってる感じがするのだろうし、老舗側からすれば、硬い肉を食べて来た過去の労苦も知らないで、となる。協会やJリーグはどうしても部数少なく安定感もない新興勢力やフリーランスには冷たく対応してしまうんじゃないですか。身内・仲間内意識は一種の文化方言みたいなもので楽なんです。それで御用達のような出入りの業者メディアと赤の他人メディアとは少し違うとばかりに対応面での差をつけてしまう。
前者は信用のある「鬼」のいない「世間」で、後者は冷たい「社会」や「鬼」そのもの。ヌッと真正面に現れるよそ者に見えてしまう。『サッカー批評』なんかは、かれこれもう12~13年も続けているのに、いまだ後者扱いなんじゃないですか、構成員に特段の問題はないと思うんですけどね。構成員という言い方もちょっと変か…(笑)。
トルシエ時代の日本平だったかな。監督、コーチになった早稲田大学のOB連とスタンドに坐っていたら、ほぼテレビタレント化している某元日本代表選手が、わざと聞こえるくらいの声量で「ちえっ、結局、ワセダじゃないと協会の主流になんかなれねえんだよな」みたいなことを視線だけは合わさずにおほざきになった(笑)。そしたら、編集関係の年上の知り合いが「今からだって遅くない、お前ならコネで入れるだろう」と言い返して、なんだかもう、あたりは予期せぬ失笑と苦笑いの渦(笑)。
たしかに見えづらい制度はあるし、序列性だって残存しています。そういう問題意識を彼が持っているのであれば、主戦場がバラエティ番組という風にはならないと思うんですけどね。世間的な価値に負けている人が多過ぎますよ。タブーは減るにこしたことはないし,小さかろうが大きかろうが増大させる動きには抵抗の意志を示さなくてはいけません。民主主義の別名は恩知らずシステム。全柔連を笑えない現実はサッカー界にもあるんです。
思うに、ここでこういう風にやっちゃったら、あとで縫い合わせるのが大変だぞ、メディアの自殺だぞという切断点がいくつかあったんだと思います。Jリーグになってからの成り上がり選手の法外な取材謝礼要求を黙認したこと、中田英寿の取材時の弁 えのない振る舞いの放置、それと代表チーキーボーイたちの不平や思い込みを美化した金子達仁の一連の著作人気も忘れられない現象でした。
壮士風文体でいい切るドラム連打に酔えた人は仕合わせです。実は袋小路の物語でしかないその程度のことがオルタナティブなのかということには驚くばかり。長年苦労していた『ナンバー』にしても、F1のアイルトン・セナ(1960-1994)とサッカー人気でついにバブルが訪れたんです。脳電位が高まって、電荷を帯びたいたるところで火花が散った状態からかれこれもう10年以上ですか…。
思うようには売れ行きが伸びなかった『ナンバー』は'90年代前半までの苦しいときに猫やSL特集の増刊までやっていた。今、思い出したんだけど、なぜかぼくは同じケイスケでも、本田じゃないほうの桑田圭祐インタビューを『ナンバー』でしている(笑)。
「たとえ一人でも、世界を変えてみせる」と心のどこかで思っている人が増えない限り、スポーツ・ジャーナリズムの先行きは攻撃と腐敗にさらされるばかり。でも媒体の商品価値以前に、かかわる人たちが人間としてダメならその媒体もダメなんだというのをモットーにしていかないと存在理由からして怪しくなってしまう。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の言葉のように、「資本の文化ではなく、文化が資本になる必要がある」んじゃないですか。世界陸上の中継でなぜTBSは「ドーピング」という言葉を避け通したのですか。選手諸兄姉、アディダスの履き心地、蹴り心地、着心地は実際のところどうなんですか。利潤の追求が文化・芸術の否定になっちゃいけないんです。それを跳ね返す力が、ぼくの考える「個」の強さなんです。(了)
初出:『サッカー批評2013 ISSUE 64』(双葉社)』
※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。