サヤマ・リマスタリング

「2005年の日本代表監督考」第1回
5月12日にFIFA WORLD CUP 2014 BRAZILの日本代表メンバーが発表されます。代表取材は20年以上したので、フットボール・ライティングのキャリアはそこそこあるほうでしょう。『VANから遠く離れて 評伝石津謙介』(岩波書店)に続くライフワーク第2弾にあたる『日本フットボール史序説』の作業も進行中。いつかまた記者席の片隅に座ってみたいけれど、擱筆かくひつまではお預けです。というわけで、この先5回分で前景気に思いっきり水を差す(??)日本代表をテーマに受けたロング・インタビューをUPしてみます。

──1993年10月の「ドーハの悲劇」以前にも、Jリーグ世代の知らない代表チームをめぐる悲喜劇が色々あったと思います。「愚者は体験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という格言に倣って何か教訓になる手がかりがあればということで、今日は、サッカー日本代表、協会、ファン、メディアがこれまで何をしてきたかをあれこれうかがわせて下さい。

佐山(以下、S) 新聞出自ではなく、雑誌育ちの僕の場合は「出入り自由」というのを常に意識してきたところがあります。サッカー界の内と外とを自由に往来したかったんです。インタビュー雑誌を若い頃やっていたときに「人選権」のようなものが持てたことも大きかったですね。つまり、会いたいサッカー関係者にいつでも会えることが重要だった。それでまあ、初めて選手のインタビューをしたのが1981年ぐらいだったのかな。

──どんな内容でしたか。

S いや、もうこれがちょっとお見せ出来るような代物じゃなくて。24歳当時のラモス(瑠偉)だったんだけど、双方異様なまでにナイーブというか(笑)。恵まれていたのは、'84年ぐらいから『ナンバー』と専門誌の『イレブン』に寄稿することが出来たこと。NHK-FM日曜夜の『FMホットライン』に、『朝日ジャーナル』にという風で、自分ほど各種媒体で好き勝手にサッカーについて語ったり書いた人は居ないのかもしれない。ただ、これは自慢ではなく、現状、徒労感の誇示なんですけどね(笑)。

──過去の代表監督の歴史、特に'80年代の森孝慈監督以降の流れを振り返って、今につながる経験値となっている成果はあるのでしょうか。

S 難しい質問ですね。人気のあった森さんの前の川淵監督時代にも、風間、戸塚、金田らの「黄金の中盤」と呼べる人材が揃った訳だし。それで'80年12月にスペイン・ワールドカップ予選を香港で戦って、相変わらずの対日感情の悪さを体験したりで、ちょっと昨今の状況と似ていなくもない。日本人観客に投げつけたのは、コイン、鶏の骨、乾電池と、まあ集団的犯罪スレスレの線。

 選手の持っていた自信ということでは、'84年ロス五輪予選に向かうときが一番だったという説があります。日本サッカー狂会('62年発足/幹事長・池原謙一郎)と日本サッカー後援会('76年発足/会長・山下勇/顧問に石原慎太郎ほか74名)ぐらいしかサポーター組織はなかったけれど、まだイスラエルがAFCに属していたあの時代に、今のようにホーム&アウェーできっちり戦えたらという悔いが残りますね。コンディショニングというあたりでは'68年メキシコ五輪の銅メダル以来の蓄積もあったはずですから。当時、国内ではフェアプレー賞ばかりが話題になりました。でも実際に他の出場国が驚いたのは繊細微妙な高地対策だったんです。

 メディアvs監督ということでは、やはりこちらの意図を汲んで誠実に接してくれた監督のほうが大きな存在として心に残ります。言葉数少なの「以心伝心型監督」というのはサッカーの場合、あまりプラスに働かないんですよ。逆に外国人監督というのは、通訳が介在するから、メッセージ量は半分で済むし、それが妙な有り難みになったりで。そこで「即効性をとるなら外国人監督。ただし飽きられて効き目がなくなるのも早い。他方、日本人監督の場合は、成果が上がるまで時間はかかるけど、結束力は喚起出来る」──実のところ、現場をあずかる上層部では長くそんなことが語られてきたんです。もっとも、外国人監督ならフリーランスのプロ監督だからクビを切りやすいという面もあったんですけどね。(第2回につづく)
緊急発売 どうなるジーコジャパン!? (エンターブレインムック)
初出:『サカ通日本代表スペシャル』2005年5月/エンターブレイン
「歴史から学ぶ、日本代表監督名鑑。」を改題・補筆 聞き手:山城敬

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。