サヤマ・リマスタリング

雑誌の明日(5/5)

賭け、そしてガツン!

 うらわ美術館と岩波書店編集部が編集した『創刊号のパノラマ』というA4版ソフトカバーが手元にある。「近代日本の雑誌・岩波書店コレクションより」という副題の付いた本で、カラー撮影された夥しい表紙群を眺めるたびに寺の住職のような気分になる。なにせ慶応3(1867)年から昭和26(1951)年までの約1500冊。命脈尽きたものがほとんどなのだ。

 消えずにいるものも『文藝春秋』(1923年1月創刊)はじめいくつかあるが、中には諷刺漫画雑誌の『VAN』(1946年創刊)のように、商標をメンズ・ファッションブランドに委譲したケースもある。『女性満州』や「東亜」の付いた雑誌は当然だとしても、いささか生存率が低過ぎるではないか。枯葉が風に舞う光景を思わせる。
創刊号のパノラマ―近代日本の雑誌・岩波書店コレクションより
「新」で始まる雑誌タイトルの多さにも感慨深いものがある。『新青年』『新思潮』『新婦人』『新評論』などで軽く60を超える。込められた意味は時代をリードしていく牽引車の役割だったのだろう。

 初めに威勢良く無料雑誌を批判してみたが、2007年4月20日発行号を最後にアメリカの名門フォト・エッセイ誌『ライフ』(1936年創刊)が通巻1862号で廃刊に追い込まれた。『ライフ』は2度の休刊を繰り返し、2004年10月からは金曜発行の無料の週刊誌として発行されていた。大量の写真のアーカイブを基盤にネットで生き続ける可能性も強いが、手触りがなくなれば、もはや別物である。強いて言えば、“テレビ新聞”により近いかたちで延命をはかるようだ。

 しかしながら『ライフ』ほど巧みに雑誌の役割を集約したネーミングはない。「命」のみならず「生物」「生存」「生涯」「暮らし」「世間」「伝記」「活力」「花形」「大切な物(人)」に「実物(大)」といった多面的な意味を持つその誌名からして傑作だったのだ。そうそう、ライフには「寿命」の意味もある。晩年は単なる過去賛美の象徴と化してしまったが。

 雑誌はしばしば生き物にたとえられる。「ごった煮」にたとえる人もいる。しかしそれだけではどうにも説明がつかない。恐らくそこでは、賭けの要素がかなりのパーセンテージを占めているはずなのだ。言ってみれば、はらはらどきどきの共有。雑誌の未来うんぬんではなく、雑誌は元々が不定の未来そのもの。予測的提案や導かれるべき新たな知見で、読者の期待に答えようとする。つまりは、賭けずには居られぬ人間たちこそが正真正銘の雑誌編集者なのかもしれない。

 SNSとブログ隆盛の今は「素人の時代」である。でも待たれるのは、素人(電子派)v.s.玄人(紙派)の対立などではない。 ガツン! なのだ。発売や更新が待ち遠しかったガツン体験のなかった人が増えれば増えるほど無味乾燥な「時間泥棒」が増えていく。高揚の記憶がなければ、幻滅も落胆もない。光も影もない曇天。これが現在の雑誌状況なのだろう。

 女性誌に比べて男性誌が振るわないととかくいわれるが、当然のことだ。退屈な人生を送っている男たちがかかわれば、やはり退屈な雑誌しか出てこない。いつかどこかで賭けもせず──の中正穏当幻想が広告依存症を招くのだ。広告には雑誌保険的な要素もあるが、基本は見合いではない相思相愛の熱い恋愛関係であるべきなのだ。

 小さな賭けならみながしている。雑誌のライバル=専門性を味方につけたのがいわゆる業界専門誌だ。個人的には、大きな賭けをすることになるよりレンジの広い総合誌を小集団でいかにして作り上げるかに興味がある。むろん現状は以前にも増してきつい。そしてきついからこそ燃える。きついからこそ創意工夫が生まれる。そんな keep a stiff upper lip(窮地にあっても動じずに頑張る)の英国流をぼくは信奉する。極論すれば、スポーツ・ライティングから学んだものはそれだけしかない。

 てなこと書いていたらフットボールの写真では世界一のロンドンの写真家ピーター・ロビンソンさんからメールが来た。なになに、サヤマの文章と コーディネートで大相撲の写真集を出したい。ついては日本に滞在して半年の下準備と1年間の撮影期間を考えている…。

 よくよく考えてみれば氏との縁も3年前の『ナンバー PLUS』の仕事のおかげだ。点(=偶然)が線や面となり最後は立体になるマジック!! だから雑誌はやめられない。
 
初出:『Free & Easy』(イーストライツ)2007年6月号より

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。