続・雑誌的人間

佐山一郎blog

サヤマ・リマスタリング

雑誌の明日(4/5)

偶然性の果実

 つまらなくなった雑誌の現状に対する処方箋を出してといわれることがある。で、実はそういうリニューアル的な編集企画こそが雑誌づくりの醍醐味なのである。

 ぼくの場合はその場に必ずアートディレクターに同席してもらう。4、5人ないしは数人が最近話題の店、デザイン事務所、拙宅などに集結し、パッと面白いアイデアが出た瞬間に誰かがチョチョッとメモをとるのがいちばん好きなやり方だ。事前にアイデアを持ち寄る場合もあれば、言いたい放題の多角的視点でこうすればもっと面白くなるという合議をワインなめつつやり合うこともある。火事場で馬鹿力は出せても、良いアイデアは出ない。綽々しゃくしゃくとした雰囲気の設定が大切だ。

 嫌いなのはガシガシのコンセプトワークだ。企画書なしには一歩も動けぬ組織化され過ぎた編集部が面白いことをやるわけがない。譜面台を前にした鈍重な楽団員が各パートを死守する図をついつい想像してしまうのだ。体験上言えるのは、雑誌と音楽バンドがきわめてよく似ていること。即興と衝突を大切にするフリージャズのコンボのような感覚で集散を繰り返すのが望ましい。

 そうしたスーパーバイザーのようなことを多少やりながら相変わらず書評、コラム、大作ノンフィクションへの挑戦と色々やっている。実作者としてのリアリティなしに企画は語れないと思うからだ。

 インタビューのゆるさについては既に指摘した。だが今いちばん気になるのが「帯見て書きゃあいいんだろう」的な新刊評の頁だ。ひと言で言うと、どこもぞんざい。ここ数年、自分自身が書評欄の権威である(?)、日曜日の朝日新聞で鍛えられたせいもあるのだろうが、とにかく埋め草的な扱いのところが多い。雑誌には「一日だけのベストセラー」といわれる新聞のクォリティーより一段上を行ってもらいたいのだ。

 書評を真剣にやろうとした場合、評者へのてがい扶持ぶちではいけない。「選ぶ」という作業がまずもって重要で、実は選んだ段階で書評の仕事は半分以上終わっている。コーナー担当者が送られて来た書籍をなんとなく選んでなんとなく「ライターさん」(いつのまにやらこんな慇懃無礼な言い方がまかり通るようなった)に振り分けることが多いし、編集者が無署名で書く場合もある。特集には力を入れても元々猫の額ほどのスペースしか用意していないから、ますます“切手紹介化”してしまう。

 そんな風に書物愛を育むことを放棄してきたツケが「広告乞食」化とつながっているのだろう。これはCDやDVDの紹介記事にもあてはまる。ネットでただで見られるようになった時代であるからこそ、逆に職人的な誌面づくりを披露すべきなのだ。特集がいくら立派でも、周辺の書評欄やコラムが弱いことで買う気の失せるケースは意外と多い。
いつも夢中になったり飽きてしまったり (ちくま文庫)
 この種の確信を得たきっかけは、『EX35+』(光文社)という雑誌にささやかな植草甚一論を書いたからである。1979年12月に植草先生は他界されたが、氏こそが「雑誌的人間」の元祖なのだと改めて痛感した。細部に光を当てる書き手には否応なく量的な問題のクリアーという難題がのしかかる。洋書/洋雑誌、ジャズ・レコードを買って買って買いまくり、読んで読んで読みまくった結果として漸く抽出される決して長くはないコラム原稿群。昔は気づかなかったことだが、痛ましいほどの律儀さが植草甚一先生の麗質だった。
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 雑誌への寄稿で大事なことは、言うまでもなく誌面を媒介にした共感の創出だ。友人の編集者からの依頼によって植草甚一先生のほぼ全冊を再読する機会も得られ、ぼくは幸せを感じた。それもあって「雑誌創りでは偶然、必然のどちらが重要か」と考えることが多い。結論から言えば、やはり出会いに象徴的な偶然的要素に目を向けるべきだし、またそうあるべきなのだ。

 編集者やアートディレクターの即興的閃きと書き手の律儀。様々な熱い思いがたわわに実った偶然性の果実=雑誌は自信に溢れ、店頭で物欲しげな顔をしていない。読者のためと称して緩い球を真ん中に置きに行くマーケティング投法なんかクソ食らえ、俺たちスーパーな雑誌は「即興と衝突」を最重要視するんだと言い放っている。(この項続く)

初出:『Free & Easy』(イーストライツ)2007年6月号より

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。

サヤマ・リマスタリング

雑誌の明日(3/5)

ハード・インタビュー讃

 雑誌づくりの基本って何なのだろうと考えることがある。'80年代からぼくはインタビューにこだわってきた。「術」にとどまらぬ自分なりの「論」を実践的に構築しながら有名無名珍奇人たちに話を聞きまくった。

 でもそれは、あくまでも対談や座談会ではない「内視鏡」の語源に似たインタビュー。個人が「二人称&二人称」のもたれあいではない、私(一人称)vs.あなた(二人称)で問い、語り合う光景を誌上パフォーマンスすることに雑誌の未来があると信じていた。

 その場合、読者は「彼」か「彼女」の三人称ということになる。ぬるい対談は世間話にしか過ぎない。それとは一線を画す「インタビュー」には「社会」と同時成立する鋭い矢のようなイメージがあった。

 この理屈を史上もっとも強力に推進したのが、2006年に76歳で亡くなったオリアーナ・ファラーチというイタリア人女性作家である。彼女のインタビュー原稿は'80年代当時、一本8千ドルといわれていたから、たぶん日本では1万ドル以上出していたに違いない。


 フォークランド戦争を引き起こしたアルゼンチン軍事政権のレオポルド・ガルチェリ大統領、キッシンジャー、鄧小平、アラファトPLO議長、イラン最後の皇帝パーレビ国王(=パフラヴィー2世)、ホメイニー師、カダフィ大佐、シャロン国防相らとのインタビューはまさに彼女の言う「物語を秘めた演劇」。権力形成の方法や癖を見きわめようとすることで対象を赤裸々に描き出していた。

 その手法においては、迫力ある女性であることが、やはりものをいった。権力者にはギャラントリー(=勇敢さや女性に対する慇懃さ)がふさわしいから、反ファシスト組織の闘士にして女性初の戦争記者だったファラーチ女史を無下には出来ない。そしてみながドツボにはまるのだ。
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 最も有名な逸話は、イラン革命の指導者ホメイニーがチャドルをむしり取ったときのことだろう。それは、「気に入らないのなら、かぶらなくていい。チャドルというものはちゃんとした若い女性のためのものなんだから」「もう一度言ってちょうだい!」というやりとりへの報復行為だった。

 この話はまだ終わらない。「猫のようにとびあがって席を立った」ホメイニー師にファラーチが容赦なく言葉の矢を放つ。「どこへ行くのよ、オシッコ行くの !? 」

 退去命令が出たあともファラーチは頑として動かず、「もう一度出てきてインタビューを完了すると約束すれば、わたしは退去する」と言ってのけたというから凄い。

 彼女自身、殺されるどころか死体すら見つからないと覚悟したのは、リビアでのカダフィ大佐インタビューの時だったという。インタビュー中に10分以上も「おれが福音だ!!」とわめくのをやめさせた直後の気まずい沈黙を想像するだけでも恐ろしい。それが事実上の国家元首であるカダフィのその後の態度変化に役立ったのかどうかは分からないが……。

 インタビュー中の深刻なトラブルはぼくの場合、2度しかないが、幸いにして生命の危機までは感じられなかった。

 こうした尋問に近いハードなインタビューが出来るのは、日本では旧知の猪瀬直樹をおいて他に見あたらない。しかしその種の才能は、日記と和歌があれば事足りる日本の文化風土にはそぐわない。悪の原理に対する弱さは日本神話に悪神が見あたらないことからもうかがい知れる。

 こんな考え方でやってきたから、雑誌の基本がヌードや著名作家の小説という風には思えない。スリリングなロング・インタビューをよく載せたな~、しかも写真、イラストも素晴らしいゾ! ──これこそが、ぼくにとっての雑誌の基本であり常識なのだった。いや、「なのだった」の過去形ではいけない。「雑誌創りに飽きたり行き詰まったりしたらインタビューに帰れ!」をこの先もモットーにしていくつもりだ。(この項続く)

初出:『Free & Easy』(イーストライツ)2007年6月号より

※「サヤマ・リマスタリング」は毎週水曜日・金曜日に掲載予定です。

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