続・雑誌的人間

佐山一郎blog

佐山一郎インタビュー(2/4)

──佐山さん自身はとくに『新青年』のどこに興味を持たれたんですか。

 『新青年』の中で中村進治郎さんたちが執筆された「ヴォガン・ヴォグ」というファション・コーナーをファッションプロデューサーの石津謙介さんご自身が愛読していたというのを聞いたことが決定的でした。でもやはり小林信彦さんの長編小説『夢の砦』ですね。本文中の『新青年』を模倣してみんな失敗するというあたりかな。
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 中井英夫さんが『ブルータス』2号で昭和8年の10月号が凄いと書いています。水谷準編集長の時代で、夢野久作、小栗虫太郎、獅子文六らがその頃の主要執筆陣ですね。雑誌というのは編集長次第で、どの時期も一様に素晴らしいということじゃないから、そういうふうに特定したくなる感覚というのが重要です。

あと、当時のモダン系の人たちは、「これしか読むものがなかった」という言い方をされます。30年続いた都会派のメンズマガジンをポストモダンの日本で打ち出すのが困難になって、逆に郷愁をかき立ててやまないようです。モダニティと郷愁というのは、本来、水と油のはずなんですけどね。

──いま『新青年』のような雑誌をやるとなるとどういう形態の雑誌になるんでしょうか。

……「敢えて紙でなければならなかった理由が読者に突き刺さるようなかたち」としか答えられないですね。「独裁編集人」とわざわざ銘打ったほうがうまくいくんじゃないでしょうか(笑)。

──でも『新青年』は不良っぽいし、いい意味でいいかげんですよね。

「総ルビだったから取り敢えず子供にも読めた」と1935年生まれの久世光彦さんが、山本夏彦さんとの対談(『文学界』94年9月号)で語っています。1915年生まれの山本さんは小学校4年生ぐらいのときに乱歩のバックナンバーを古本屋で買って読んだそうです。どんぴしゃりだったのは、1911年生まれの石津謙介さんや1910年生まれの双葉十三郎さんの世代じゃないですかね。『新青年』という忘れ物を探したくなる世代も一人減り、二人減りというのが実状なんじゃないでしょうか。

──「モボ」、「モガ」というのもちょうどその辺りの人たちになるんでしょうか。

「モボ」、「モガ」というのが、これまた定義の難しいところでね。ヴァンヂャケットの元総帥・石津さんが『ファッションと風俗の70年』(婦人画報社・75年)のなかで「ぼくのモダンボーイ記」として書かれたことが出色なんだなと思います。女性では淡谷のり子さんや宇野千代さん。男性では俳優の中野英治さん、岡田時彦さん。僕らがなんとなくイメージをしている髪を短くして断髪でというようなことは確かだけど、実際はもっと荒々しい精神性を帯びていた。

 リアリティーは、往時の銀座界隈で遊んでいた人の示すものでしか分からない。石津さんの文章で初めて立体的に分かり得たという感触ですね。で、その石津さんがモボの代表は、『新青年』お洒落コラムの常連、中村進治郎だと書いているんです。

 モボは、やはり銀座で遊ぶ慶應の学生という感じ。淡谷のり子さんが各大学に歌いに行くと、慶応に行くとケーキが出て、明治に行くとソーダー水しか出ないとかで類型化が可能だったんです。いまじゃもう、大学イメージの類型化や単純一般化自体が、ひどく迷惑な話でしかないんですけどね。(この項つづく)
 
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

佐山一郎インタビュー(1/4)

季刊『nobody』誌で掲載していただいた2009年のインタビューを再録します。インタビュアーは渡辺進也氏です。

渡辺進也(わたなべ・しんや)
1983年生まれ。編集、映画批評。映画雑誌『nobody』編集委員。主な著書に『建築空間400選』(共著、INAX出版)など。
NOBODY issue41 
 東急東横線沿線の最寄り駅を降り、かつては暗渠であったという緑道をひとしきり歩く。そこに流れる緩やかな時間のなかでここが東京23区内であることをしばし忘れてしまう。

 住宅街の坂路地に面したRC打ち放し三階建ての佐山一郎さんのお宅に伺うと、ご本人が快く出迎えてくれた。

 2階の書斎で名刺を交換すると、そこは『雑誌的人間』(リトルモア・2006年)という本の著者。あれよあれよという間に机の上が是非閲覧してみたかったヴィジュアルに優れた雑誌でいっぱいに。氏が編集長を務めた『スタジオ・ボイス』──松田聖子がチューイングガムを口にくわえる印象的な表紙の──1983年12月号もそこにある。『スタジオ・ボイス』が提携していた'80年代前半のアンディ・ウォーホールズ『Interview』や1968年から75年にかけて文化出版局から出版されたメンズ・マガジン『NOW』の全冊。そうした雑誌のページをめくっているだけで時がたつのを忘れてしまう。

「若さにまかせて自由奔放なことをやっていたから、いまの雑誌がつまらなく見えてしまいます。でも、もうちょっと我慢強ければ、こういうマイナーでもメジャーでもないスタイルの雑誌を定着させることができたかもしれないですね」。

 かつての仕事を振り返る何気ない一言に雑誌への偏愛が仄見える。

 佐山さんは1920年から1950年まで続いたモダン雑誌『新青年』の商標権を2006年に取得している。『新青年』はあの江戸川乱歩がデビューした雑誌であり、横溝正史、久生十蘭といった探偵小説家が活躍した雑誌。帰朝者の谷譲次(=長谷川海太郎/牧逸馬/林不忘)がアメリカで生活する日本人を描いた「めりけんじゃっぷ」シリーズは、当時の若者たちの海外への憧れを刺激した。その守備範囲は伝統の探偵小説にとどまらず、映画、スポーツ、ファッションなどの雑文にまで及んだ。『新青年』は関東大震災から復興へと向かう戦前・戦中の東京と寄り添うモダン・マガジンだった。

 なぜいま『新青年』の商標権を取得したのだろう。その経緯は氏が『文藝春秋』2006年9月号の巻頭随筆欄に寄せた「『新青年』発見」に詳しい。
〈(略)新青年研究会による立派な探求書『「新青年」読本全一巻──昭和グラフィティ』(作品社・1988年)がある程なのだから、誰かしかるべき人物ないしは版元が保有しているはずだと普通なら考える。そして、その瞬間、我が胸に「至上の雑誌愛」とでも譬うべき感情がわきたち、後日、弁理士の居る特許事務所の扉を開けることとなった。/登録査定謄本の送達があったのは、およそ八ヵ月後。かかった費用は意外にも大画面薄型テレビが買える程度の金額だった。/目下の心境としては、一九五〇年七月号の休刊から五十数年ぶりの復刊を夢見る権利を得られた喜びよりも、江戸川乱歩、横溝正史、谷譲次、夢野京太郎、小栗虫太郎、久生十蘭、獅子文六らあまたの才能を擁した超名門雑誌が長く野に打ち捨てられていたことに対する困惑のほうが強い〉
 表向き復刊に向けて準備中ということになってはいるものの、佐山さんには世間の反応を楽しんでいるようなところもある。

 幻に終わるかもしれない『新青年』復刊構想を皮切りに話は昨今の雑誌の状況に向かう。
STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 04月号 [雑誌]
──この春、『スタジオ・ボイス』の400号に掲載された北沢夏音さん、坪内祐三さん、湯山玲子さんとの座談会「MAGAZINE'S BEAT」を拝読しました。予想以上にみなさん熱っぽく『新青年』について語っていますね。

 いやいや北沢さんだけでしょう。横溝正史(1927-1981)がオーガナイズした時代、ということは昭和2年3月号以降の『新青年』が大好きで、「軽い気持ちで商標権を取ったのなら、口もききたくない!」なんて言われてしまいましたから(笑)。

──みなさん『新青年』が休刊したときに生まれていらっしゃらないですよね。なぜ『新青年』で話題を共有できているのかが不思議だったんです。雑誌が元気だった'80年代に活躍された方たちの誰もがお好きなのでしょうか。

 そんなことはないと思います。終刊した昭和25年 7月号の時点では、いま50代半ばの僕ですら生まれていないですからね。やはり作品社から出た鈴木貞美氏たちによる『新青年研究会』編『「新青年」読本全一巻──昭和グラフィティ』が大きかったんじゃないでしょうか。

 あとは『ブルータス』の創刊2号での特集と小林信彦さんの小説『夢の砦』(新潮社)。『ブルータス』が'80年、『夢の砦』が'83年の秋。『「新青年」読本』が'88年。新青年の編集者だった乾信一郎さんの『「新青年」の頃』(早川書房)が'91年。'80、'83、'88、'91年と続いて来たんです。やはりそうした絶え間ない流れによる影響が大きいですね。

 立風書房から立派な函入りの『新青年傑作選』全5巻が刊行されたのは1970年5月。僕は当時、高3でしたけど、五木寛之、庄司薫、それに立木義浩さんたちカメラマンが華やかだった時代です。『新青年』趣味といわれた独自のセンスについて知るのはその後だいぶ経ってからです。 (この項続く)
 
nobody issue 30

初出:『nobody issue30』(2009年5月25日号)

※「インタビュー」は不定期更新です。

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